『ガブリエレ・ミュンター 』パリ市立近代美術館

マリアンネ・フォン・ヴェレフキンの肖像画、1909年 美術展
マリアンネ・フォン・ヴェレフキンの肖像画、ガブリエレ・ミュンター、1909年、パリ市立近代美術館
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パリ市立近代美術館で開催されている『ガブリエレ・ミュンター』展を見に行きました。

ガブリエレ・ミュンター(1877‐1962)はドイツの表現主義の画家として知られている。彼女の両親はアメリカで結婚しており、ガブリエレはベルリンで生まれる。そして9歳の時に歯医者として成功を収めていた父が亡くなる。その次の年に兄も病死する。その後1897年に母が他界した後、20歳のガブリエレは姉と共に渡米する。

当初は母方の家族を訪問するための渡航だったが、ニューヨーク、アルカンサス州、ミズーリ州など2年間北米に留まることになった。その間、姉からプレゼントされたコダックのブルズアイで400枚以上の記録写真を撮っていく。そしてこの経験がきっかけで芸術家になることを決意する。

ドイツに帰国したガブリエレは、ミューヘンでロシア人の画家カンディンスキーに出会う。当時女性は美術学校に通うことはできなかったため、彼女はミューヘンのファランクスという前衛的な芸術家団体の聴講生となる。そしてこの学校の創設者のひとりであるカンディンスキーに、その才能を認められる。

ミュンターはこの時期、デッサン、絵画だけでなく写真、版画(リノカット)、ガラス絵など多様な表現方法を用いて作品を作り上げていた。

ミューヘンの青騎士とガブリエル・ミュンター

カンディンスキーは、当時ロシア人の女性と結婚をしていた。しかしその女性の理解のもとミュンターと14年間、ともに旅をしながら創作活動を続ける。彼らは、欧州、地中海、ロッテルダム、ハーグ、ハールレム、アムズテルダム、チュニスなどを移動していく。

そして1909年に二人が滞在していた、ムルナウにある家を購入する。その家には、マリアンネ・フォン・ヴェレフキン、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、フランツ・マルクなどが滞在する。そのため、この建物は地元の人々から「ロシア人の家」とよばれるようになる。1911年彼らは『青騎士』というグループを結成し、年刊誌を1912年から14年まで発行した。そしてグループ展(1911年、12年)も2度開催している。

青騎士は、形象(フォルム)に固執することなく芸術の多様性を訴える。そのため彼らは表現主義という枠以外、目立った共通点はなかった。この考えは、当時の芸術に新風を吹き込み、現代アートへと大きく前進するきっかけとなる。

カンディンスキーとの別れの後

ミュンターと結婚の約束をしていたカンディンスキーだったが、1917年彼はロシアで他の女性と結婚した。第一次世界大戦が勃発し、ロシアに帰国していた時の事である。ミュンターは、このことを後で知らされる。彼女は音信不通になってしまったので、カンディンスキーは亡くなったと思っていた。

その後、有名なデザイン学校バウハウス(ドイツ)の教授になったカンディンスキーは、ミュンターに自分の作品を返却するよう要求するが拒否される。しかし長い裁判の結果、12枚の大作がカンディンスキーに返却された。それ以外の作品とムルナウに滞在した芸術家の寄贈作品は、婚約破棄の損害賠償としてミュンターの所有になる。そして彼女は生涯それらの作品をムルナウで保管する。(アクリル画のみ売却している)結果、彼女はナチスの退廃芸術とされていたカンディンスキーの作品を後世に残す人物となる。

カンディンスキーはミュンターを芸術家として認めていたが、その才能は「純粋に女性的だ」と付け加えていた。彼女は、カンディンスキーの伴侶として、彼の作品をレンバッハハウス美術館に寄付した人物として名前が残ることになる。

今回の展覧会では、画家としてのミュンターの多彩な才能を再発見できた。

参考サイト

2025年女性画家の美術展

パリ市立近代美術館の情報

Musée d’art moderne de Paris

『ガブリエレ・ミュンター』展は8月24日まで開催

開館時間 火曜から日曜10時から18時(チケット販売は17時15分まで)、木曜日は21時30分まで開館(チケット販売は20時30分まで)

住所 11 Avenue du Président Wilson 75116 Paris

電話 +33(0)1 53 67 40 00

料金 大人15€、25歳以下13€、17歳以下無料

地下鉄 9番線Alma Marceau駅

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