『ウォルト‐オートクチュールの先駆者』プチ・パレ

イブニングドレス、ウォルト、1900‐05年 プチ・パレ
イブニングドレス、ウォルト、1900‐05年、プチ・パレ
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パリのプチ・パレで開催されている、『ウォルト‐オートクチュールの先駆者』展に行ってきました。

19世紀に大流行したメゾン・ウォルト。今回の展覧会では、そのドレス、アクセサリーやデザインの資料など400点が集められた。またナポレオン3世の后妃ウジェニーご用達のデザイナーは、オートクチュールの生みの親ともいわれている。

シャルル・フレデリック・ウォルトは1825年にイギリスで生まれる。貧しい家庭に生まれた彼は、ロンドンの生地屋で見習いとして働き始めた。そして彼はそこで生地と洋裁に必要な知識を養う。それに加えナショナル・ギャラリーや美術展に通い、古い肖像画について勉強していく。またこの知識は、後のデザインに生かされるようになる。

ウォルト&ボベルグ社の変装衣装のデッサン、1860年‐63年
ウォルト&ボベルグ社の変装衣装のデッサン、1860年‐63年
ドレスのデザインアルバム、1860年‐70年頃
ドレスのデザインアルバム、1860年‐70年頃

ウォルト、パリでオートクチュールをはじめる

1846年ウォルトはパリに移住し、ガシュラン(Gagelin)という生地店で働く。既製品の服も売るその店で、彼は売り子のトップとなり、ガシュランのオーダーメイド部門を立ち上げることになる。そしてウォルトのデザインしたドレスは、1951年ロンドン万博、55年パリ万博で賞を獲得する。その結果、ガシュランとウォルトの名は有名になっていく。

1958年には同じ店で働いていたボベルグと共に独立し、ヴァンドーム広場に続く道、Rue de la Paix(平和通り)の7番地に店を構える。そしてウジェニー后妃のドレスを手掛ける彼は、瞬く間に人気デザイナーとなった。また顧客には、貴族や大使夫人など当時の社交界の人々が集まった。

当時洋服を売るには、カタログ販売が主な手段であった。しかしウォルトは、新しいドレスを披露する際、服をモデルに着せ顧客の前を歩かせた。このことから、今のオートクチュールのコレクション発表の土台を築いたといわれている。ウォルトの新作を見るため店には上流階級の人々が集まり、社交の場所としても知られていた。

イブニングドレスのコルサージュを付けたトランスフォーメーションドレス、1866年‐68年
イブニングドレスのコルサージュを付けたトランスフォーメーションドレス、1866年‐68年
イブニングドレス、1894年-95年
イブニングドレス、1894年-95年
ゼノビアのコスチューム。1897年
ゼノビアのコスチューム。1897年
イブニングケープ、1898年-1900年頃
イブニングケープ、1898年-1900年頃

ウォルト、ドレスデザイナーのアーティスト

ウォルトは自分のドレスの価値を高めるため、有名な顧客に積極的に商品を販売していた。そして彼自身も他の芸術家と交流を持ち、ドレスデザイナーのアーティストとしての自分を演出していた。

大人気の彼の商品を真似するデパートも出現してきたが、彼はそれを容認していた。そして一年を通し季節ごとに作品を発表していった。その新作はテーマに沿って作られ、そのテーマから派生したドレスがいくつも制作された。

しかしウォルトが1895年に亡くなると、息子たちが会社を引き継いだが1956年には閉鎖された。ヴァンドーム広場近くの広大な店舗は、現在は宝石商のカルチエになっている。これはウォルトの孫娘アンドレ・カロリーヌとルイ・カルチエの結婚により、両家につながりができた結果である。

イブニングドレス、1892年
イブニングドレス、1892年
百合のイブニングドレス、1896年頃
百合のイブニングドレス、1896年頃

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プチ・パレの情報

Petit Palais

『ウォルト』展は2025年9月7日まで開催

開館時間 火曜から日曜10時から18時(チケット販売は17時15分まで、17時45分より庭と展示室の退室案内開始)、1月1日、5月1日、11月11日、12月25日閉館

住所 Av. Winston Churchill, 75008 Paris

電話 +33(0)1 53 43 40 00 (開館日の午前10時から18時まで)

料金 常設展無料

地下鉄 1番線13番線Champs-Elysées-Clemenceau駅、9番線Franklin D.Roosevelt駅

鉄道 RER C線 Invalides駅

バス 28、42、72、73、80、83、93

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