『マネ・ドガ』オルセー美術館

ナナ、マネ、1877年 オルセー美術館
ナナ、マネ、1877年
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オルセー美術館で開催されていた『マネ・ドガ』展に行ってきました。

印象派の父と言われるエドゥアール・マネ(1832年‐1883年)と踊り子の画家エドガール・ドガ(1834年‐1917年)。今回の企画展は、同時代にパリで活躍した二人の画家に焦点を当てた。

マネは近代的な主題を始めて官展に提供した画家として知られる。そして彼に続き当時の労働者や身近な人々を主題とする画家が増えていった。ドガや彼が所属する印象派もこの流れに属する。

そして官展に受け入れられなかった画家たちが集まり、後の印象派展が開催される。マネはこの印象派展には一度も参加していない。

また印象派の画家の特徴として野外制作がある。しかしドガはアトリエで作品を描くことを続けた。そしてマネも野外制作をすることはなかった。

マネは印象派展に参加しなかったので、印象派の画家ではない。しかしドガは、アトリエ制作の画家でも印象派展に参加したので、印象派と位置付けられている。

そして二人の画家は、近代的な主題、新しい構図や画法を取り入れている一方で、アカデミックな絵画の伝統も持ち続けた。

女性とオウム、マネ、1866年
女性とオウム、マネ、1866年
洗濯女、ドガ、1873年
洗濯女、ドガ、1873年

官展の画家マネ、印象派の画家ドガ

印象派以前は、官展で入選した者がプロの画家として認識されていた。官展では、歴史画、宗教画、肖像画、静物画などアカデミックな主題が殆どであった。そんな中マネは、1863年に『草上の昼食』で、裸の女性と服を着た男性たちがピクニックをしている作品を官展に出品し批判された。それに続き、1865年に娼婦を描いた『オランピア』を官展に送り再びスキャンダルをおこした。

このようにしてマネは何百年も続く古典的な姿勢を崩さない官展に、近代的な主題と画法で新しい風を吹き込んだ。また同じ時期、官展の審査基準に満足しない落選したアーティストたちが、別の発表の場を自分たちで作り上げた。これが後に『印象派展』と呼ばれる美術展でる。ちなみにこの展覧会の名は、マネが第一回の印象派展(1874年)に出品した『印象-日の出』に由来する。

ドガは8回開催された印象派展のうち、7回参加している。一方でマネは、官展での成功を目標とし印象派展には参加しなかった。

プラム、マネ、1877年頃
プラム、マネ、1877年頃
花瓶の横に座る女性、ドガ、1865年
花瓶の横に座る女性、ドガ、1865年

スペイン絵画のマネ、ジャポニズムのドガ

身近なパリの労働者を描くマネとドガも、異国の文化から影響を受けていた。

マネの作品には、スペイン絵画から取り入れられた要素が多くみられる。彼の肖像画は、ベラスケスの肖像画の様に背景は暗い無地が多い。というのも、この方法で人物像を描けば、人物の存在感をより引き立たせることができる。一方でドガは日本から影響を受けていた。ジャポニズムの画家は、印象派の画家に多く見られる共通点だ。そして彼らは日本の版画から斬新な構図を学び、自分の絵に取り入れた。また着物や扇子など、日本のアイテムを持った絵画も多く描かれている。

ドガの肖像画は、周りの小物や背景からどのような人物か読み取らせる。この方法は、サロンで成功を収めていた肖像画家にも見られる。絵に描かれた人物の教養や社会的地位などが伝わる構成も、画家の腕の見せどころだ。

今回の展覧会では、印象派という近代絵画ムーブメントが流行った時代に、古典絵画のエッセンスをどのように配合していったかが良く見ることができた。

スペインの歌手、マネ、1861年
スペインの歌手、マネ、1861年
版画のコレクター、 ドガ、1866年
版画のコレクター、 ドガ、1866年

参考サイト/オルセー美術館

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オルセー美術館の情報

Musée d’Orsay

開館時間 火曜から日曜9時30分から18時、木曜日は21時45分まで開館、閉館日 月曜日

住所 Esplanade Valéry Giscard d’Estaing 75007 Paris 

料金 大人(18歳以上)日時指定予約16€、大人当日券14€、18歳未満無料、

地下鉄 12番線Solférino駅、RER C線Musée d’Orsay駅

バス 63番、68番、69番、73番、83番、84番、87番、94番

駐車場 Carrousel du Louvre、Bac Montalembert 

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