『シュザンヌ・ヴァラドン』ポンピドゥーセンター

赤いソファーの上の裸婦、シュザンヌ・ヴァラドン、1920年 ポンピドゥーセンター
赤いソファーの上の裸婦、シュザンヌ・ヴァラドン、1920年
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パリのポンピドゥーセンターで開催されていた『シュザンヌ・ヴァラドン』展に行ってきました。

シュザンヌ・ヴァラドンは、貧しい母のもと1865年にリモージュ(フランス中央部)近くの小さな町で生まれた。本名は、マリー・クレモンティーヌ・ヴァラドン。母は、洗濯女として働きながら娘を育てた。しかしマリー・クレモンティーヌが5歳の時、貧しさから抜け出すためパリに移住する。そして労働者が集まるモンマルトルの丘で、母と二人暮らしを始めた。そのころから彼女はデッサンに夢中になる。

大きくなった娘は、家計を助けるためサーカスで働いていた。しかし大けがをして仕事が続けられなくなると、モンマルトルでプロのモデルとして仕事を始める。そしてピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ロートレック、ルノワールなどのモデルを務めた。シュザンヌという名は、当時付き合っていたロートレックがつけた。この名前は、ダニエル書(聖書)の『スザンナと長老たち』が由来となる。それは若い彼女が年老いた画家のモデルになっているのが理由である。

自画像、シュザンヌ・ヴァラドン、1883年
自画像、シュザンヌ・ヴァラドン18歳の時の作品

恋多きヴァラダン、自由に生きたシュザンヌ

またこの時期にヴァラドンは、ロートレックからドガを紹介してもらった。ヴァラドンからデッサンを見せてもらったドガは、彼女に画家になるよう勧める。実はヴァラドンは、モデルをしながら巨匠の技術を勉強していた。またドガはヴァラドンのデッサンを購入し、画商デュラン・リュエルにも紹介した。その結果ヴァラドンは、30歳手前で、女性で初めて国民美術協会に展示することができた。

私生活では、1883年モーリス・ユトリロを生んでいる。エコール・ド・パリの画家で知られるユトリロは、モンマルトルの風景を沢山描いた画家だ。ヴァラドンは家族の肖像画を沢山制作しているので、ユトリロもその中に多く描かれている。

そして恋多きヴァラドンは、ピアニストのエリック・サティとも6か月付き合っていた。その間にヴァラドンは彼の肖像画を制作する。そしてサティも楽譜の裏にヴァラドンのデッサンを残した。

1906年にはユトリロの友人であったアンドレ・ユッテルと出会い恋に落ちる。当時ヴァラドンは44歳、そして将来二回目の結婚相手となるユッテルは23歳であった。

ヴァラダンの肖像画と裸婦

アーティストとして認められるようになったヴァラダンは、肖像画の注文も受けた。その中でも1922年のレヴィ婦人の肖像画は、自身が一番の傑作と言っている。

そして裸婦も多く描いている。ヴァラダンの裸婦は全身像が殆どである。特に入浴の主題のデッサンやは、腕を上げたり、足を曲げたりダイナミックな動きが多い。ドガの入浴や自信がサーカスで曲芸を行っていた影響もあるのだろう。

また彼女の裸婦は、優雅な女性を描くのではなく堂々とした女性の姿が多い。そしてヴァラドンは、男性の裸体を発表した初めての女性画家でもある。当時の絵画教室では、女性が男性の裸体を描くことは禁止されていた。彼女は夫であるユッテルをモデルとして『アダムとイヴ』(1909年)や『網を打つ人』(1914年)で男性の裸体を描いている。

モデルとして、絵画の世界に足を踏み入れたヴァラダンだが、生前にも国に作品が買われるほどの実力派のアーティストとなった。しかし彼女の名前は、第二次世界大戦後には忘れられるようになった。というのもヴァラダンの作品の主題は、家族や身内などが多く近代的な芸術と対峙していた。キュービズムやシュールレアリスムのような突出した革新的な表現方法からすると平凡に見えたのかもしれない。そして彼女は有名画家のモデル、愛人として、ユトリロの母親として知られるようになる。

参考サイト

ポンピドゥーセンターの美術展

ポンピドゥーセンターの情報

Centre Pompidou

開館時間 月、水、金、土、日曜11時から21時、木曜日は23時まで開館、閉館日 火曜日、12月24日と31日は19時閉館

住所 Place Georges-Pompidou 75004 Paris 

料金 大人(18歳以上)17€、25歳以下14€、18歳未満無料(身分証明書提示必要)

地下鉄 11番線Rambuteau駅、または1番線と11番線Hôtel de Ville駅

バス 29番、38番、47番、75番

駐車場 Parking Centre Pompidou、31, rue Beaubourg(入口)

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